『目くらましの道』 ヘニング・マンケル


70年代のマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー夫妻による警察小説マルティン・ベックシリーズ以来長い間北欧ミステリーを手にすることはなかったが、ひょんな機縁で近年カミラ・レックパリの『氷姫』を読み、そしてこのたび遅ればせながらこの物語にたどりついた。

本書の舞台はバルト海に面した北欧の国スウェーデンの南西端、スコーネ地方だ。海を隔てた目と鼻の先にデンマークの首都コペンハーゲンを望み、古くからバルト三国との交流も盛んな地方でもある。そして、主人公クルト・ヴァランダーはスコーネ地方東端の古い歴史を残す小都市イースタ警察に長く勤める警部であり、本書は彼を中心に展開するいわゆる警察小説である。

ヴァランダーは、間もなく始まる夏の休暇を楽しみにしていた。しかし、海を隔てたラトビアに住む恋人バイバとの休暇の日々は一本の電話でくずれさった。出かけて行った先の菜の花畑で、少女が焼身自殺を図ったのだ。何かにおびえるような表情をした少女が燃えるのをなすすべもなく目の前にした彼に追い打ちをかけるように、事件発生の通報が入った。駆けつけた現場では、引退して久しい元法務大臣が背中を斧で割られ、頭皮の一部を髪の毛ごと剥ぎ取られていた。

手厚い社会福祉と自然豊かな国土をもち、透き通るような白い肌とばら色の頬をした人々が暮らす穏やかで幸福な北の国。われわれが思い描くスウェーデンの人と国のイメージは多かれ少なかれこういったところだろう。しかし、本書でヘニング・マンケルが描くのは、多様な価値観が生み出したゆがみやひずみに悲鳴をあげる病んだ国スウェーデンの現代社会だ。それも首都ストックホルムだけではなく、遠く離れた地方都市でさえ例外ではないほど深刻になっているという重い事実がつきつけられる。

スウェーデンはひどい貧乏の中から立ち上がった国だった。大部分は自力で、また幸運な状況も手伝って豊かな国になったのだ。(中略)
だが問題はもう一つの貧困だ、と彼はコーヒーカップを手に、窓の前に立って考えた。われわれはそれを解決することができない。社会福祉があらゆる方面から削られ押し潰されそうになっている時代、今まで冬ごもりして隠れていたほうの貧困、家族の悲惨さが表面に出てきたのだ。(中略)古い社会を爆破したとき、そこではまだ家族が団結していたのだが、われわれは家族に代わるほかのものを作ることを忘れてしまったのだ。

現代の日本社会がかかえる大きな課題でもある「家族の崩壊」は、北欧の先進国スウェーデンでも確実に進んでいたのだ。高度に進んだ社会がもたらした幸福は、その代償として新たな不幸を生み出してきたのである。しかも、その不幸とは複雑で錯綜した価値観のゆえにいっそう救いようのない悲惨さと暗さに彩られている。
そういったことを知ったうえであらためてみると、『百年の孤独』などを思わせるような幻想的で伝説的な物語から始まるプロローグの暗示する意味がはじめて胸に落ちてくるのである。

目くらましの道 上 (創元推理文庫)

著者/訳者:ヘニング・マンケル

出版社:東京創元社( 2007-02-10 )

定価:

Amazon価格:¥ 1,080

文庫 ( 384 ページ )

ISBN-10 : 4488209068

ISBN-13 : 9784488209063


目くらましの道 下 (創元推理文庫)

著者/訳者:ヘニング・マンケル

出版社:東京創元社( 2007-02-10 )

定価:

Amazon価格:¥ 1,080

文庫 ( 384 ページ )

ISBN-10 : 9784488209070

ISBN-13 : 9784488209070


本書は三本の糸で織り込まれた物語である。縦糸は、錯綜したスウェーデン社会のひずみが生み出した凄惨な犯罪を追う地方警察の刑事たちの苦闘の物語である。一方、横糸は変貌するスウェーデン社会のなかで結婚と離婚を経て、再び新たなパートナーを得たヴァランダーを取り巻く家族(娘や父、そして別れた妻を含めて)の物語である。そしてもう一本の糸は、成熟を深めるにしたがって豊かさと引き換えに何かを失わなければならなかったスウェーデン社会の苦悩とひずみである。

短い夏の訪れとともに始まった凄惨な事件は、次の文章で始まるエピローグで終わりをむかえる。

九月十六日金曜日、突然秋が南スコーネ地方を訪れた。(中略)
ドロレス・マリアの父親という男はヴァランダーのそばを歩きながら寒さに震えていた。男はヴァランダーの肩までもなかった。二人はヴァランダーの車で墓地に行った。(中略)
男は墓の前でひざまずいた。それから泣きだした。濡れた地面に顔をすりつけるようにして、むせび泣き、ヴァランダーのわからない言葉で語りかけた。気がつくとヴァランダーもまた泣いていた。

この物語は、このエピローグ「スコーネ 1994年9月16日から17日」なしでは決して完結しえない。読者はここに到るまでの凄惨な過程を経て、ようやく救いを感じることができるのである。

ズシリと読みごたえのある重厚な物語だった。もうすこし、この作家の作品を読み込んでみようか。


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atmos-nwp の紹介

主に50~80年代の海外ミステリーの紹介を兼ねて読後感を綴っています。本格、倒叙、ハード ボイルド、冒険、スパイ、安楽椅子、ユーモア系等ジャンルは問わず読み散らかしてきました。ときには散歩の道をそれて50~70年代のモダンジャズやスキー、バラ園芸にもふれています。HP「気象と気候値のページ」も運営していますので、興味のある方は一番上のタイトルの下にある<気象と気候値のページへ>をクリックして是非お立ち寄り下さい。
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